建物は新しくなリましたが、我が集落、昔の趣をまだとどめている方だと思います。家々が旧街道沿いに連なって続き、その周りは田んぼと低い山です。
山裾の方に、山肌を削った新興住宅地の屋根が散見します。田んぼは一見すると昔のままのように見えますが、10年ほど前にほ場整備事業があって、小さい畦や水路はなくなり、大きな区画の田んぼになりました。
今では集落のほとんどのお宅が会社勤めをして生計を立てていますが、私が子供の頃、回りはみんな同じくらい貧しい農家の集まりでした。農業だけか、他に仕事を持ちながら、少しばかりの先祖伝来の土地を耕して兼業農家を営んでいました。
その頃の農業は、今のように機械化されたものではなく、本当に人海戦術でした。田植えや稲刈りの忙しいときは、親戚同士が助けあって作業にあたっていました。その助けあいは、冠婚葬祭にも及びました。今でこそ希薄になりつつありますが、田舎の人間関係の繋がりの強さは、こういうところから来ているのだと思います。
農業も今に比べると世間の所得が低かったせいか、自給のお米や野菜は十分生活の助けになり、収入の不足分をカバー出来たのだと思います。
それだけに労働は過酷でした。農繁期、自分の田んぼを手伝ってもらったら、当然手伝って返さなければいけないので、稼働日は長期になりました。
我が家も兼業農家でしたので、両親は農繁期は早朝から日が暮れてもなお野良仕事に出ていました。私の子供の頃の思い出のかなりの部分は、9歳下の弟と留守番したことで占められています。
その頃は農閑期の冬でも夏の準備のための作業がありました。寒い冬の夜、土間にむしろを敷き、その上に座布団を敷いて、たぶん豆炭行火でも抱きながら、母は菰(こも)編みの夜なべ仕事をしていました。
自分で田んぼや畑をしてみると、よく両親二人だけであれだけ広い面積を耕作していたなぁと感心します。今では、非農用地として空き地になっていたり、休耕地として草が生えているところ、駐車場として車を止めているところも全て田んぼと畑でした。あの頃は、土地を遊ばしておくことは許されなかったのでしょうね。
そんな環境でしたから、いつもお母さんが家にいる非農家の家の子が羨ましかったと言う話は、以前したような気がするので、今日は別の話です。
その頃からある庭の柿の木に小さな黄色い花が今年も咲き揃いだしました。
田舎なら昔はほとんどがそうだったように、我が家にも文化的な環境とか娯楽などというのはほとんどありませんでした。家にある読み物と言えば、新聞と農家の月刊誌「家の光」、娯楽はラジオでした。
ラジオはニュース、ドラマ、歌謡番組、落語、漫才が主だったと思います。ドラマは私も楽しみにしていたのがいくつかありました。そして夜、子供が眠る時間が過ぎても布団に入ったまま眠れないでいると、居間のラジオから浪花節のしゃがれた声が聞こえてくるのでした。
そんな時代が長く続いて、我が家にテレビが来るようになったのはやっと小学四年の頃です。それでも親戚が電気屋をしていたので、回りの家より少し早いほうでした。
テレビが家に来るようになった頃、同時にいろんな電化製品が普及しだして、それまでの暗いけれどのんびりした時代から、華やかでにぎやかな時代に変わって行ったように思います。少しずつ生活が豊かになり、私も弟も成長しだしていました。
中学三年の時です。長い間、我が家の娯楽を一心に背負っていたテレビ以外に、新しい娯楽製品が我が家にやってきました。と言っても、きっかけは娯楽ではなく高校受験でした。
私が高校受験の頃、我が県は少数派だったと思うのですが、7科目制を取り入れてました。主要五科目の英数国社理の他に、体育と音楽が試験にありました。
野球小僧だった私は体育と美術は好きでしたが音楽が大の苦手でした。その頃もすでに内申書というのがあって、年々重視されるようになってきているなどと脅されていたので、普段の成績が期待できない私は、なんとしても本試験を突破しなければと思ってました。
音楽のテストには、ペーパーテストの他に鑑賞がありました。今で言う英語のヒアリングテストのようなもので、課題曲が会場に流され解答を記入するのです。6曲ほどの共通鑑賞曲があったのですが、この聞き分けが音楽の素養のない私にはいかにも難関に思えました。また、点数配分も比較的高かったと思います。
もちろん音楽の授業で、鑑賞曲を何回か聴かせてくれるのですが、合計6曲を数回聞いただけでは私の悪い耳は、聞き分けられませんでした。唯一覚えられたのは、ハチャトゥリアンの「剣の舞」くらいなものでした。
「剣の舞」が出題される可能性は6分の1ですが、もっとも印象的で誰でも覚えやすいその曲を出題していては正答率が相当上がってしまうので、おそらくそれは出題されないだろうと思いました。
今は英語のヒアリング用にCDが販売されていたりしますが、その頃も、鑑賞曲を全て収めたソノシートが販売されていました。それを何回も聞いたら、さすがに耳の悪い私でも何とかこの難関を突破出来るのではと思いましたが我が家には再生装置がありません。
で、両親に受験のために必要だと言って、買ってくれるように頼み込みました。自分たちが無学なため苦労していると思っていた両親は、私たち兄弟への教育には、自分たちを犠牲にしても惜しまないところがありました。
その頃の金額でいくらしたのか、父はこういうものは税金がかかっていて贅沢品なんだとぶつぶつこぼしながらも、親戚の叔父にポーターブル電蓄を頼んでくれました。
叔父が持ってきてくれたのは、ナショナル製のポータブル電蓄だったと思います。たぶんもうソリッドステートだったと思うのですが、ボディは白と青のツートンでプラスチッキーなものでした。
コンパクトでLPをかけるとレコード盤がボディからはみだしてました。ピックアップも今のレコードプレーヤーのアームのように凝ったものではなく、針圧調整などなかったと思います。
33回3/1と45回転、78回転のスリースピードで、ピックアップの先のレバーを回転させるとLP用の針と、SP用の針に使い分けられるようになっていました。
赤くて向こうが透けて見えるぺらぺらのソノシートはそんなに高くはなかったと思います。その時聞いた音楽が、学校の授業で聞く以外初めて聞く電蓄の音であり、また初めてのクラシック音楽でした。
ソノシート収められた6曲の鑑賞曲はほとんど忘れてしまいました。覚えているのはハチャトゥリアンの「剣の舞」と、出題曲、チャイコフスキーの「クルミ割り人形」から「花のワルツ」だけです。
ワルツなんて、その頃は両親がテレビで聞いていた芸者ワルツくらいしか知りませんでしたから、ソノシートで予習していなければ、私にはとても答えることが出来ない曲でした。おかげで無事、正解して高校にも受かることが出来ました。
高校に行けるようになって、電蓄は本来の娯楽品になりました。町の高校通うようになった私は、時々レコード店に寄り道して当時流行っていた歌謡曲などを買って聞くようになりました。
このポータブル電蓄には、もう一回登場してもらうシーンがあるのですが、それはまた次のお話に取っておこうかと思います。
チャイコフスキーの花のワルツ
そう言えば、偶然ですがチャイコフスキーもCで始まると思ったら、Tchaikovskyと、Tが割り込んでますね。
この記事へのコメント
yukky_z
懐かしいですわぁ^^ すっかり途中から、自分の玩具と化しましたが^^;
cafelamama
家の光、ソノシート、懐かしいです。
僕が小学生の時、父の兄妹の叔父叔母たちがまだ同居していました。
叔父が買ってきたレコードが「スーダラ節」などが入ったクレージーキャッツのソノシートでした。
手をぶらぶらさせるしぐさをしながら家族そろって聴いた覚えがあります。
something
そうですかー、入試に音楽鑑賞。でポータブル電蓄を・・。
親ってありがたいですね。子供のためにと、無理を聞いてくれる。これはいつの時代も共通かもしれません。
それにソノシート懐かしいです。我が家にもソノシートまだありますよ。「グリーク」のと「シューベルトの未完成」ペラペラしていて1つのは赤いですが、もう1つのはグレーです。今の普通のアナログプレーヤーでかけると、針を傷めてしまいそうな感じです。
でも当時はこんなソノシートでも立派な娯楽でしたね。「剣の舞」はうちにもあったと思いますが、ソノシートだったのか、すでにLPとEPの中間ぐらいの大きさのレコードだったのか忘れてしまいました。ハチャトリアンという作曲家の名前をオヤジから教えてもらいました。
あの頃は、音の良し悪しなんか全く気づかず、音楽そのものを楽しんでいた時代だったと思います。
かといって今のオーディオの楽しみも素晴らしいもんだと思いますが。
song4u
たった2歳しか違わないのに、かなり環境が違っているように思います。
確かにぼくの子供の頃も周りは田んぼと畑だらけでしたが、それに土が盛られて
更地になるのに長い時間はかかりませんでした。
小学校入学当時、通学路のほとんどは田んぼと畑でしたが、卒業する頃には
多くが姿を消し、5階建てのコンクリート住宅が林立していました。
さて、小中学校時代の音楽の時間。
何故あれほどまでに興味を持たなかったのだろうと思うほど、まったく興味を
覚えず、のみならず先生方にも失礼の数々・・・。(幼さの至り。^^;)
幾多の名曲を聴くチャンスを与えてもらっているにも関わらず、まともに聴いて
いないので、ほとんど記憶に残っておりません。
価値が分からなかったと言ってしまえば、それまでの話なんですが。^^;
それは古典などにも共通して言えるような気がしております。
愛の喜び/愛の悲しみ。
意味合いはまったく異なりますが、ぼくのクラシック第一歩はクライスラーでした。
小学校時代の掃除の時間、放送係は毎日欠かさずにかけていました。
好きになったというわけではありません。記憶にある第一歩という意味です。
この曲を聴くと、いまだに当時の「ああ掃除だ、イヤだなあ」という微妙な感触が
見事なまでに甦ります。せっかくの名曲なのに申し訳ないくらい。
音楽版パブロフの犬ですね、まるで。(笑)
ken
テレビがありました。
自分の家は商売をやっていて父親も母親も店にでていましたから
おばあさん子かもしれません。
店を手伝わされたり、配達の近いところもっていったり子供の頃から
手伝いしていました。
正直なところサラリーマン家庭がうらやましかったのをおぼえてます。
(ただしあの頃のサラリーマン)
いまや帰ってきたら子供の寝顔という生活が多いですね。
どうもまだまだ日本のライフワークバランスは会社中心のようですね
たいへー
赤白のポータブルプレーヤーでソノシートを聞いてました。
もちろん、勉強の為ではなく、
おそ松くんやスーパージェッターでしたけどね。^^
そらへい
こんにちは
確かに大昔ですね。
今やレコード自体が過去のものになってますからね。
それでもマニア相手のプレーヤー
新品はびっくりするくらいの値段が付いてたりしますが、
ポータブル電蓄の生き残る道はなさそうですね。
そらへい
こんにちは
タマネギの髭の料理はやっぱり却下されてしまいました(笑)
トウモロコシは、二列の方が受粉しやすいと言うことで、
一列でも手で手伝ってやれば受粉可能と思います。
実際、私も1年目は一列で作りましたがちゃんと成りました。
スーダラ節が流行ったのは小学校低学年か、中頃
同級生が腕を振ってふざけているところを先生に見られて
こっぴどく叱られてました。そんな時代でしたね。
そらへい
こんにちは
本当に昔の親は、自分たちの娯楽を知りませんでしたから、
何でも家のため、子供のためでしたね。
それに比べて、私は自分のことにかまけることが多くて
子供たちに十分なことをしてやったかどうか・・・
実は、私はこのことに味を占め、高校に行ってから
英語の勉強に使うからと、小型のオープンリールデッキを
買ってもらいました。英語に使ったのはわずかでしたが・・・
ソノシートは、受験用のもの以外にもあった気がするのですが、
どんなのがあったかもうすっかり忘れてしまいました。
雑誌の付録などにも付いていた気がします。
ほんとうにポータブル電蓄の頼りない音でも
当時は喜んで聞いてましたね。
このずっと後で、ポータブルステレオでレコードを聴いたときの
あの両チャンネルから音が迫ってくる感激は忘れられませんね。
そらへい
こんにちは
時代の違いと言うより、育った地域の違いなんでしょうね。
あれから数十年、今でこそ変化を感じますが
当時は十年一日のごとく、と言う田舎でしたね。
何度か、ここは江戸時代か、と思ったことがありますよ。
今から思えば、当時の子供たちに大人しくクラシック音楽を聞け
と言う方が間違いだったのではないかと思います。
今では、教科書にビートルズが載ったり、「翼をください」があったりして
より音楽に親しみやすく取り組めるように工夫されていますね。
うっとりと聞き惚れてしまうクライスラーの「愛の喜び/哀しみ」が
掃除の思い出とはちょっと辛いですね。
いつかFMのリクエスト曲が、学校の給食の時間に流れていた曲で
この曲を聞くと、文字通り、よだれならぬお腹が鳴ると言う
メッセージが読まれてましたね。
私は音楽が苦手だったので、ほとんど曲覚えていないです。
やっぱり目覚めるのはこのポータブル電蓄以降でしょうか。
それでも、高校に毎朝登校時流れていた軽音楽
タイトル思い出せません。
そらへい
こんにちは
当時、何らかの形で子供は家の手伝いをしてましたし
役割を与えられていましたね。
私は、親や家にいろいろな不足を感じていましたが
大きくなってから同級生と喋ったりすると
皆それぞれに、自分の家や親に劣等感を持っていた
と言うことがわかって驚きました。
自分にとって当たり前のことも、そうではない人がいたんですね。
その逆もあるのですが・・・
そらへい
こんにちは
おそ松くん、スーパージェッター
弟の世代ですね。
私はもう中学か高校生になっていましたが
その頃のテレビ番組、弟のおつきあいでけっこう見てましたね。
私の時代は、アトムも月光仮面も、鉄人もみんな実写版でした。
ケンタパパ
子供のころ、うちには有りませんでしたが、持っているご近所さんの家で曲は忘れましたが聴いたのを覚えています。ソノシートは小学○年生などの雑誌の付録にもたまに付いていましたが、付属の針ではよく聴こえなかった、なんてこともあったと思います。
Studio-Oz
雑誌の付録でソノシートとかありました。
レコードは高価でなかなか買えず・・・
丁度、レンタルレコード店なんて出始めて・・・
良く借りた事を思い出しました。
夏炉冬扇
子供のころ押し入れに「蓄音機」があったのをおぼろに覚えています。「じいさんは新し物好きだったから」という説明を母に聞いたような…
その蓄音機もいつのまにかどこかに…
10数年前、ぼろぼろの蔵を崩したら、レコード盤が出てきましたっけ…
そらへい
こんばんは
ソノシート、初めの頃は商品として売られていたのでしょうが
正式なレコードが普及しだしてからは、
雑誌の付録に手頃な存在になっていたのでしょうね。
朝日ソノラマという雑誌にいつもソノシートの付録が付いていたようです。
そらへい
こんばんは
レコードの代用というか、手軽だったのでしょうね。
私が持っているクラシックレコード、盤は厚いのですが
色が赤くて、これはソノシートではないと思うのですが。
レンタルレコード、ありましたね。
レンタル・・・の先鞭でしたね。
そらへい
こんばんは
電蓄ではなくて、ゼンマイ式の蓄音機は、お隣にありましたね。
そこのご主人が、あたらし物好きだったようです。
つい2.3年前、息子さん(と言っても私より年上ですが)
その蓄音機を捨てようとされていたので譲り受けました。
何とか音は再生しましたね。
ただ、状態の良いSPレコードがあまりありません。
bigryu
大人が相手してくれなくなると、ゴソゴソとプレーヤーを引っ張り出し、黙って昔話を聞く子供。。
どうなんでしょう。いまだに一人上手です^^
プリウス
農家のかたは大変な苦労があるのですね。
一日中・一年中、お仕事と向き合っているのかも知れません。
・・その点サラリーマンには、「会社休日」があって分りやすい・・
私も、ナショナルの電蓄がスタートでしたが、ソノシートでは昔話を聞きました、
あとは、お決まりの流行歌!!・・・フィンガーファイブが大好きでした!(笑
そらへい
こんばんは
世代の違いですね。
てんとう虫型のレコードプレーヤですか。
確か我が家の息子の時は、ハンドル付きのカセットプレーヤがあったような
私の頃の一人遊びの相手は、漫画を中心にした月刊誌でした。
一ヶ月、ひとつの雑誌を何回も読んで、最後は絵をかいて過ごしました。
そらへい
こんばんは
江戸時代以来、農民は虐げられてきた歴史があると思いますが
今は、どうなんでしょうね。
ま、補助金等の手当がないと、なかなか出来ない仕事になってますね。
同じナショナル製でしたか。
これがオーディオの始まりでもあるわけですね。
フィンガーファイブは弟の世代に近いですね(笑)
takenoko
モノクロの写真のような話、懐かしく拝読いたしました。
katakiyo
ラジオ・浪曲・ソノシート・神社の秋祭りにー美空小ひばりーなんて看板も
思い出しました。
そらへい
こんばんは
ブタナの画像についポチッと・・・
本当にこの時代は、写真もテレビもモノクロでした。
そらへい
こんばんは
この頃の思い出は、語りだすと尽きなくて
それこそ次から次へと、支離滅裂になってしまいます。
そういえば、家の中では娯楽は限られていましたが
外での遊びはたくさんありましたね。
盆踊や獅子舞もそんなうちの一つでした。
駅員3
ソノシート・・・懐かしいですね。
そらへい
こんばんは
ポータブル電蓄がある頃は、豊かさの兆しのようなもの
日本が本当に豊になってくると、皆さん応接間にどんとステレオを
セットするようになりましたね。
しばちゃん2cv
僕の叔父が、「自分は歩く戦後史だ。私以前は戦争で不幸な目にあい、私以後の世代は、夢のない時代でかわいそう」 といつも言っています。
私は昭和40年代生まれなので、生まれたときからカラーテレビがありました。ステレオも。
でも、僕の成長と併せて、コンピューターは発達してきましたので、小学校のとき、黎明期のパソコンを使って、BASICとか、プログラムを組んで遊んでました。
今の子供たちは、生まれたときから携帯もパソコンもあるので、自分の成長と併せて、何かが成長、発展するような経験が少ないかも。
まあ、その子供たちも大人になったら、そのまた子供たちに自分たちの世代の自慢をしているかもしれませんが。
般若坊
そらへい
こんばんは
環境に影響されやすいのも人間ですが、
どんなに環境が変わっても変わらないのも人間です。
たぶん、それぞれの世代、生きている限り
それぞれの思い出が形成されて行くのではないでしょうか。
そして、思い出の違いこそあれ、そこに優劣はないと思います。
今の子供たちがどんな思い出を形成していくのか
子供たち自身でもあり、また大人たちでもあるんでしょうね。
親が貧しかった体験から、子供にはそんな思いをさせたくないと
いろいろ手を尽くしてみても、案外子供が覚えていないこともあったりして
世代世代で思いは様々ですね。
そらへい
こんばんは
コメントありがとうございます。
その時が、般若坊さんにとって、初めてのポータブル電蓄体験であり
アルルの女序曲が初めてのクラシックだったのでしょうか。
私は、花のワルツ、タイトルは覚えていましたが、
曲はすっかり忘れていました。
ぼんぼちぼちぼち
柿の花ってこんなだったのでやすね!
もっと全体が大きく青くなったのは よく地面にぽろっと落ちてて知ってたのでやすが
柿の実の薄ーい色なんでやすねo(◎o◎)o
そらへい
こんばんは
柿の花、淡い黄色でつるっとした艶があって
柿の実をいかにも連想させますね。
花が多いので、今年は豊作かも。
もっとも、渋味があるので誰も食べませんが。